与太郎の奏でる音楽

出来事を文字にして白地の空間に毎日投げ込む

大好きだけどなんか怖い

信頼できる友人とテキストで宮沢賢治の話をした。
なんでも話せるからこそ、言葉を大切にし、対話を重ねられる人なのだ。
宮沢賢治、大好きだけどなんか怖い」ということをきっかけになぜ怖いのかを考えた。
個人的には宮沢賢治の作品が怖いのは死の境界があやふやだからだと思う。
明示しないけどその人物は多分死んでいるのがわかるのに、生者の世界にもいるようにも見えるように描いている。
特に『春と修羅』の序文にあたる『わたくしという現象は』で、

 

「人や銀河や修羅や海胆は 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論もかんがえましょうが それらも畢竟こころのひとつの風物です」

 

と書いていて、その後には、

 

「すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから」

 

と続く。
一見理不尽に見えるほどその事象を冷静に見つめるその眼差しが怖く感じるのかもしれない。
それを強く感じられるのは『マグノリアの木』って短編だと思っている。

主人公の諒安(多分お坊さんだと思う)が、霧のかかった険しい山を歩いた先で倒れてしまうのだが、誰かの声がして起きて歩き始めると急に霧が晴れて平たい地に着いて、後ろを振り返るとマグノリアの花が一面に咲いていたという話だ。

多分ここでの「平たい地」は死の世界で、「誰かの声」は神様(あ、でも賢治は法華経だから仏様?)なのかと思ったら自分自身なのだ。

 

「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」

諒安は山で死んでマグノリアの花になった、前述の詩でいう「おのおののなかのすべて」の一部になったのではないかと思ってる。
あと「平たい地」に着くまでの境界があやふやというかほとんど無いようにも読める。
でも読んでいるとそこに漂うのは諦観というよりも希望というか前向きな感触があるのだ。

短いお話なのでもしよろしければぜひ。

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